楽しかったニューヨークでの生活、その一方ドッカリ孤独を感じさせる街NY。まだまだやり残したことがたくさんあるような気がして、後ろ髪を引かれつつボクを乗せたジェット機はサンフランシスコヘと向かった。
ニューヨークでの緊張感溢れる生活とは打って変わって、サンフランシスコの風は柔らかく、街並みは美しい。ボクのボロホテルは、市内でも特に悪名の高いテンダロイン地区にあり、夜8時を過ぎたころになると、なにやらあやしげな連中がウヨウヨしてスリルいっぱいだけど、NYでスジ金入りのワルに何度も揉まれてきたボクはすっかり免疫ができたのか、何を言われても落ち着いたもので「おっさん、ドスが足りんぞ」と言ってタバコをふかす自分があるのだから経験とは怖いものだ。こういう時はビビった方が負けで、こっちの方が一枚上手だという態度をとり続けることが大切だ。それでダメなら全力で逃げる。小学校6年生の時、名古屋市の陸上大会で三位に入賞してバッチを貰ったんだぞ。逃げ足には自信がある。
さあ、レコード店巡りだ。例によってイエローページからピックアップして地図に書き込む。バスと地下鉄をつかって行くんだけど、写真で見るよりもサンフランシスコの坂はキツい。50枚もレコードを両手に抱えホテルに帰ったときなど足腰がガタガタになる。今思えばレンタカーを借りればよかったものを、その当時はそこまで頭が回らなかったのだから情けない。ニューヨークのレコード店はクールでテキパキしていて「ハイ、お次ぎ」って感じでそれはそれで気持ちいいんだけど、サンフランシスコの店はゆったりしていて、レジでジョークを言って毎回笑わせてくれる。「君が日本へ帰った時この方が得するよ」と言って、安く書いたレシートをもう一枚くれた店もある。「他にいい店をお知えてくれる?」と言えば丁寧に地図まで書いてくれるし、持って帰れないほどレコードを買い込んだ時にはタクシーも呼んでくれた。とにかくどの店もフレンドリーだ。
そんなレコード店巡りもそこそこに、ボクの心のルーツであるかつてのヒッピー文化の発祥地〈ヘイト・アシュベリー〉へと足を向けた。夢があった60年代、キラキラしていた60年代。ボクがヒッピー文化に共鳴する最大の理由は大人達が引いたレールに安易に乗っかり管理社会の中に安楽を求めることを若者が否定したことだ。そしてそれは武器を持って戦うことや、子供じみた反抗ではなく、音楽・アート・文学が一体となり、より人間的な自由と夢を求める思想と運動だったからだ。ロングヘアーは戦争反対の意志表示であり、ジーンズ (60年代、アメリカの東海岸の高校では禁止されていた) とTシャツはエコロジーに対する態度であり、マリファナ・LSD・禅は〈自覚の扉を開ける行為〉だった。そして音楽はストレートなメッセージとして音楽以上の力を持っていた。ひとつのイメージの下に40万人以上の若者が集まった ″ウッドストック・ミュージック&アートフェア" 若者が集まることが〈空間〉を生み出し、壮大なドラマが生まれ〈神話〉を作る。ここで大切なのは集まった若者のひとりひとりはごく当たり前の若者達だったことだ。時の人、ジョン・レノンは歌ってる「僕を夢追い人と呼んでもいいよ/でも僕は独りじゃない」と。
しかしベトナム戦争終結と共にヒッピー文化は下火になっていった。しかしボクがそこで見たものは分厚い本を抱え、方法論を変えて、もう一度勉強し新たにチャレンジしようとする多くの若者の姿だった。そこに行けば幸せになれるという甘い時代は過ぎ去ったけど、祭りは終わり、より確かな現実に向け、ひたむきに行動している彼らを見てボクが信じてきたヒッピー文化は単なる流行ではなく精神であることが再確認でき、新たな活力がみみなぎってきた。クリス・ブラックウェル (アイランド・レコードの社長)、シェレミー・トーマス (「戦場のメリークリスマス」等で有名な映画プロデューサー)、スティーブ・ジョブス (アップル・コンピューター社長) 等、今を時めく人たちを筆頭に、バイオテクノロジーやコンピユータープログラマーの分野で多くのもとヒッピー達が活躍している。ヘイト・アシュベリーを観てミイラ捕りがミイラになったというか…昔の恋人に久々に会ってまた惚れなおしたというか…なんとも情けない話だが、真実はひとつだからしょうがない。
都市にはそれぞれリズムがあって、同じ時期にニューヨークとサンフランシスコを観ることが出来たのは本当にラッキーだった。そしてこの2都市から学んだことは、ひと言でいえば〈たくましさと優しさ〉だった。この相異なるものがハイブリッドしたとき素敵なものが生まれる。一生懸命だけど無理はしない、親切だけどベタベタしない、優しいけど弱くない、そして情報と知識が満載したインテリジェントストア。ボクの頭の中で新感覚のレコードショップが誕生した。その名は〈バナナレコード〉。サンフランシスコに来て肩の力を抜いたときポロッと浮かんだのがこの名前だった。ニューヨークにいた時浮かんだ店名といえば〈ダイナマイトレコード〉〈1000ワットレコード〉〈ハイパワーレコード〉などなどプロレスのリングネームよろしくやる気満々といった感じでどうもいただけない。
さあ、現実に向けて第一歩を踏み出そう。アメリカと日本の中間地ハワイで数日頭を冷やしたボクは意気揚々帰日した。しかし日本での現実は…
日本に帰ったボクはのんびり休む間もなくさっそく行動を開始した。なにせアリ金を全部持ち出して、帰国したときにはポケットに数万円しかなく、他に財産といえば、商品の中古レコードと18万円で買ったトヨタ・ライトエースのみ (エンジンをかけるのにかなりコツがいる)、お金に換えられない素晴らしい経験をいっぱいしたけれど、思い出だけでは飯は喰えない。あー、やらなければならないことがいっぱいだ。とにかく生活資金と開業資金。久々に会場を借りて中古レコードセールの再開だ。久しぶりの売り出しで多少の不安があったけど、扉を開けた途端ドッとお客さんがなだれこんで来た。嬉しかった。そんなお客さんのためにも、いい店を作らなくてはと肝に命じた帰国第1回目のセールだった。
さあ、いよいよ店さがしだ。自分自身決めていたことが2つあって、必ず名古屋の中心地、栄に店を出すこと。もう1つは両親から一切お金を借りず、さらに中古レコードビジネス以外の仕事、アルバイトをせず正道で稼いだ100%自己資金で開店するということだった。少々ストイックだけど、自分だけの力でどこまでやれるかという…究極の自力本願で自分自身にチャレンジしたかったからだ (ヒッピーの意地なのだ)。 よって、有るのは理想と情熱だけで資本金は非常に少ない。駄目で元々と思いつつ、とりあえず定石どおり栄の不動産屋へ足を運ぶ。こちらの条件を言い終わらないうちに「あんたね―、この栄にそんな値段で借りれる所があるはず無いじゃないの。ま、もしそういう物件が出たら電話するから、そこに名前と電話番号を書いておいて」。そんなことを栄の不動産屋で数日繰り返した。楽しみに待っていたが10年たった今も電話して来た不動産屋は一軒もない。
「ええい、役にたたん奴らめ。それだったら自分で探したるわ」。と、心に決め、来る日も来る日も往復の地下鉄代と昼食代500円持って栄に向かう。どうせビルの1階が空いているはず無いので、2階に目線を定めて歩き回る。気になるビルには勝手に入り込んで、扉の前でコソコソ覗き見して管理人に叱られたり、空き巣と間違えられたこともある。とにかく毎日栄に出かけ、首を45度に上げて歩くものだから家に帰って首筋が凝ってしょうがないし、家族からは上眼づかいは止めろと言われる。それでも毎日出かける。そして自分に気合いを入れるために毎朝スローガンを考える。「いい日旅立ち」「苦あれば楽ある」「道は開ける」「諦めません勝つまでは」。しかし途中で雨に降られ、びしょ濡れになって帰るときなど、さすがのド根性ガエルも気が減入る。ボクがアメリカで描いた理想は絵に書いた餅になってしまうんだろうか。トホホ…
名古屋の中心地で店を探すのは非常に難しい。それは地下街がネックになっているからだ。地下街は掘った面積しか店舗が入れないし、そういう所に入れる店といえば資本のある大きな会社だけで、ボクのような金もコネクションも無い人間が出店できるはずがない。そしてその地下街こそ名古屋最大の商店街になっている。かつての原宿やアメリカ村が若い経営者により、多くの個性的な店が出来て発展したのは、メインストリートが駄目でも、ちょっと奥ならまだ安く借りられる場所があったからだ。それが輪のように広がり商店街が発展して行く。それに比べて名古屋は袋小路だ。
ま、ボヤいてもしょうがない。不満は転化すればパワーになる。大切なのは自分の置かれた状況に、どれだけ対処できるかということだ。本当に自由になるということは、不自由なことをいっぱい克服して初めて得られるもので、棚からボタ餅なんてことは、ありはしない。自分の力で勝ち取ってこそ真の自由なんだ。
毎日栄に出かけ、なかなか店が見つからない日々だが、その苦労は決して無駄ではなかった。それは栄という街がだんだん見えて来たことだ。一見よさそうに見えても人が避けて通る道。なぜだか人が流れる道。人の導線とでも言おうか…そして、わざと雨の日に出かける、雪の日に出かける、時間差攻撃のテクニックも使う。ひと目に栄と言ってもエリア、エリアで違う表情を表す。その度に地図に赤ペンで書き込む。栄という街が浮き彫りにされ、ボクの栄マップが完成した。
毎月1回だった中古レコードセールの回数を増やしたり、大きな会場に移しイヴェントを絡めてやったりして、マスコミからも注目され始め新聞、雑誌に取り上げられてお客さんも増え売上も順調に伸びていった。しかし帰国してはや半年。いまだに店は見つからない。いつものように栄に店探しに出かける。そんなある日、あるビルが目にとまった。しかしそれは…
そのビルは角地にあり全面ガラスで明るく、ガラス面を利用すれば大きな看板も出せるし、人目に付く。そしてその2階が空いていて保証金、家賃も思ったより安い。ボクが毎日、栄を出歩き地図に書き込んだ″絶対栄商圏″ (これは旧日本軍の絶対国防圏に因んで付けた) の範囲からは僅かにズレルが、何とかやっていける場所だ。それに店探しも半年を迎え、少々焦り気味だったこともあり、大家さんに「ここに決めます」と言おうとした瞬間だ「ここはイカン!」
話は少々前後するけど、ボクは大学3年の時、交通事故を起こした。当時アマチュアバンドをやっていたボクはバンドの練習に遅れそうになり、かなり焦って車の運転をしていた。その時だ、ボクの ″うしろの百太郎″ が「危ない!スピードを落とせ」と言う声がはっきり聞こえた。その声にボクは「大丈夫さ」と答えた途端、前を走っていた車に隣の車が急に割り込み、前方の車は激しく急ブレーキを踏んだ。あっという間にボクは前の車に追突して、おまけに後ろの車にも追突されてしまった。
激しいショックとともに前と後ろがペシャンコになり、ボクの自慢だったギャランのハードトップは一瞬にして軽自動車のサイズに変貌した。当時これに乗っているとトレンディで、女の子にかなりもてただけにショックも大きい。トホホ…しょげかえる間もなく、後ろの車から2人の男が飛び出して来て「バカヤロー!てめぇどこ見て運転してんだヨウ。俺はちゃんと前見て運転してるのに急ブレーキ踏みゃ―がって」と、えらい剣幕で食ってかかって来た。助手席の奴はわざとらしく足を引きずり「骨が折れたかもしれん。ど―してくれるんだよ―」と、くだをまいて来た。ボクは「前の車がブレーキを踏めば、フレーキを踏むのは当たり前だろ。ちゃんと前を見ていたというけど、それでボクの車にぶつかるとはどういう了見だ。それに痛いかかゆいか知らないが、そんな足どうもしたらん。モンクを言うなら友達の運転手に言うんだな」と切り返した。その途端そいつは痛いはずの足でいきなり蹴飛ばして来た。ボクはスーパー・マリオブラザーズよろしくヒラリと身をかわす。ハハハ…甘く見たな。ガキのころから逃足だけはピカいちだ。そして「交通事故が傷害事件に早変わりするぞ」と大声でわめいた。こ―いう時は身の安全を図るために野次馬を集めるに限る。そしたらそいつは「俺はこういうもんだ」と言って何か差し出した。見たらなんと ″警察手帳″ ではないか。バカかこいつ。そんなもん何の役にも立たんわ。逆にボクは「ちょっと失礼」と言ってナンバーをキッチリ控えさせてもらった。まったくアホらしくなってペシャンコでガタガタ変な音を立てながら変わり果てた愛車で、さっさとバンドの練習に向かった。
数日後そいつは誰かにさとされたのか平謝りで修理代金を持って、ボクの所に来たのは言うまでもない。ついでに口のききかたも教えてやろうかと思ったが、ま、それはやめておいた。
守護神の言葉を聞かなかったばかりに、とんだ目に違った。その "うしろの百太郎" が「ここはイカン!」と言うのだからここは鬼門だ。「1日考えます」と言って次の日に断りの電話を入れた。少々惜しい気もしたががニガイ経験があるだけに、ここは退いておいたほうが無難だ。しかしそれは的中した。その後、その部屋にあるサラ金の会社が入ったが、しばらくして押し入り強盗にあい、現金を奪われパトカーが走り回りとんだ騒ぎとなった。そのビルは今でもあるが数年後、地上げにあい、現在わずかに数店舗を残すのみで空き部屋が目立ち、ビルのタイルは剥がれ落ち急速にお化け屋敷に変貌してしまった。地上げそのものは都市再開発上全てを否定するつもりはないが、自分の店がそんな目にあうのは避けたい。なにはともあれボクには ″神さん″ がついているのだと、自覚した次第であった。
〈現在市内に6店舗、外商部、事務所を含めば8つのセクションがバナナレコードにはあるわけだけど、その後 ″うしろの百太郎″ の声を一度も聞かなかった所をみると今まで選んできた場所は間違いなかったのかもしれない〉
そんなこともあり、またイチから店探しを始める。そんな時友人の「ま―のんびりやってますよと、世間に対して思えばいいんだよ」いういいアドバイスにジーンとなり、その言葉は今でも思い出す。友とはありがたいものだ。この試練はいつか花開く。焦っても無いときはない。これも巡り合わせで、いつか良いご縁に巡り合うと自分に言い聞かせ、また毎日栄に出かける日々。そして毎月一度の中古レコードセールに精を出す。
そんなある日いつもセールを行なっていた栄町ビルにフラッと立ち寄ったとき、丸栄不動産のはり紙が目に入った。それは店舗案内で思わず見入ったが、とても高くてボクには手が出ない。高嶺の花と諦めて歩きだしたが毎月中古レコードセールを行なっているその会場と同じビルに不動産屋があるのも何かのご縁と思い引き返し、ダメでもともとと思い、その事務所の扉を開けた。
以前も栄の不動産屋に出かけ全て空振りに終わっただけに逆に気が楽だった。案の定、ボクの条件にあうような安い物件があるはずもなく、諦めて帰ろうとしたときその事務所の人に呼び止められた。「横で聞いていたけど、君はこのビルの賃室で中古レコードセールを行っている人だね。いつも一生懸命がんばっているなぁと思ってみてたんだよ。うちでは小口物件は扱ってないけど、私の知っている不動産屋を紹介してあげよう。私も音楽が好きでね―、ちょくちょく覗きに行ってたんだよ」と言ってその場で電話をしてくれた。ボクはお礼を言い3日後に紹介してもらった不動産屋の人と栄で会った。
やり手の営業マン風の彼は開口一番「これはどうでしょう」と言い1枚の物件案内を鞄から取り出した。ボクはおもわず「ウッ」唸った。その物件は地下1階だった。どうせビルの1階が空いているはずもなく、もし空き部屋があったとしてもべらぼうに高くて手が出ないと思い、ビルの2階ばかり探していたがこれはまさしく ″死角″ だった。おまけにそれはボクが地図に書き込んだ″絶対栄商圏″にギリギリの所でひっかかっている。支払いも何とかなる。「いますぐ見に行きましょう」と言ったボクは気持ちがワクワクして小走りだった気がする。そして、そのビルの地下の空き店舗を見た瞬間、今まで理想に描いてきた ″店″のイメージが閃光をおびてパーッと開いた。
ボクはパンと手を叩きキッパリ言った。「ここに決めます」「そんな簡単に決めていいんですか? まだじっくり見てませんよ」と言う不動産屋の声は虚ろに響いた。聞けばそのビルは僕の大好きなエンパイアステートビルディングと同時期に建てられたもので、B29の空襲にも耐えた運の強いヤツだ。戦後は進駐軍の司令部に使われたという。大理石をふんだんに使った荘厳な面持ちは風格たっぷりだ。おまけに生命保険会社のビルなので、店の住所を書く場合 ″○○生命ビル内″ と書けば人間の心理として暗黙的信頼も得られる。商売は信用第一。一石二鳥とはこの事だ。ますますもって気に入った。″道は開いた。石はころがり始める″
さあ、エンジンフル回転だ。開店にあわせ毎月行なっていた中古レコードセールで集めた名簿や、今までお世話になったマスコミ関係に開店案内を発送する。店作りは建設関係の友人に ″原価″ でやってもらう事になった。僕が入店するその場所は以前焼鳥屋の調理場になっていた。店内を白いベンキで吹き付け塗装しようと思っても焼鳥の油がこびり付いていて「鳥の怨念だ」とわめき何度も塗り直したり、ベニア一枚はがしたら、ゴキブリの死骸が何百匹も落ちてきてみんな「わ―」と言って逃げ出したり、ドタバタの連続だったが、そんな苦労も楽しい思い出だ。天井をとっぱらったコンクリート打ちっぱなしのデザインは今では当たり前だが、当時としては画期的な内装のレコードショップが誕生した。
1981年5月29日、午前11時。快晴、バナナレコード開店。
田中秀一27才の春。
それは新しいチャレンジの始まり。
僕は力いっぱい店のシャッターを開けた。