バナナレコードは2022年4月1日よりカメラのナニワ「ナニワグループ」の一員となりました。
https://www.cameranonaniwa.co.jp/bananarecord/
日頃よりバナナレコードをご利用いただきありがとうございます。
バナナレコードは1981年に創業しました。
当時27歳だった私も気付けば高齢者の仲間入り。
自分の年齢を考えこの度、新体制にすべく社長を退任いたしました。
楽しいレコード屋人生が送れたことは皆様のおかげと感謝してもしきれません。
長きにわたり大変お世話になり、ありがとうございました。
新体制のバナナレコードを今まで以上に御ひいきのほどよろしくお願いいたします。
田中秀一
以下、1989年当時に創刊したフリーペーパー「バナナ王」に連載された、
バナナレコード1号店が誕生するまでの実話『バナナレコード物語』を復刻掲載しました。
※当時掲載されたものを改変なく載せています。
バナナレコード物語
『バナナレコード物語』 田中秀一
「バナナ王」創刊号
今日で世界が終わってしまう様な気持ちでボクは大阪心斎橋通りを歩いていた。毎日毎日こんな気持ち。うつむき加減でおまけに猫背。左手に抱えた買ったばかりのイギリス盤11枚が重くて猫背になっているわけではなく、生まれつき少々猫背だった。そういえば、小学校5年生の時好きだった女の子から「田中君て、猫背ェ?。」といわれたのが最初の失恋だったけど、それはこの際関係ない。ボクの暗い気持ちが猫背にさせた。
そう、1975年、ボクはイライラしていた。そもそもマトモな会社に就職したのが間違いのモトだった。
中学2年の時、グループサウンズに夢中だったボクは、さっそく友達とバンドを組んでテンプターズやタイガースのコピーをしていた。でも何か、もうひとつ物足りない…ベートーヴェンの第9じゃないけど "もっといい音が欲しい" そんなモンモンとした日々が続いていた。しかしある日、友達の家に遊びにいったとき彼の兄貴の部屋で見つけた物は、完全にボクの髪の毛を逆立てた。それは平凡パンチのヌード写真とローリングストーンズの "ジャンピング・ジャック・フラッシュ" とアニマルズの "朝日のあたる家" の2枚のシングル盤だった。
友達の存在を無視してボクは穴のあくほどヌード写真を見つめ、耳がダンボになるほど2枚のシングル盤を繰り返し聞きまくった。そのとき感じたのは、「そうか! グループサウンズは洋楽のコピーだったんだ。」オリジナルは素晴らしい!これだ!やっとモンモンとした気持ちから開放される思いだった。それに女の裸は美しい。ま、これはいいや。しかし、中学2年生の小僧のボクには、本屋に行って平凡パンチを買うのはとても恥ずかしくてできそうにないし (ボクはとても内気なんだ)、シングル盤を、バカバカ買うほどお小遣いも無かった。だから次の日から友達の兄貴の部屋がボクにとって、貸本屋兼レンタルレコード店に早変わりしたのは言うまでもない。 "持つべき物は友" とはよく言ったもので、年寄りの言うことは聞くもんだ。またひとつ勉強になった。
学生時代
雨にも負けず風にも負けずボクは友達の家に通い続けた。いや、友達の兄貴の部屋に通い続けた。多いときにはボクの部屋に、平凡パンチのバックナンバーが16冊、シングル盤が23枚もあった。しかしそんな甘い生活が続くはずもなく、社長だった友達の家は倒産して、ある日突然居なくなってしまった。風の便りに聞いたところによると、レコードマニアだった兄貴はヤクザになったらしい。それ以来会ったことは無いけれど、男気だった彼の背中にはミック・ジャガーのイレズミが彫ってあったのかもしれない。
そんな日々を送りつつボクも中学3年生になり、受験シーズンを迎えた。レコードを聴くこととバンドをやる事しか頭にないボクは、見事に公立高校の受験に失敗した。ちょっとしたショックあったけど、受験の帰りに寄った栄のレコード店で聴いた1曲の方がボクにとっては大ショックだった。それはクリームの "ホワイトルーム" アルバムタイトルは "クリームの素晴らしき世界" ボクの失敗した入学祝いはこの一枚で決まりだった。この一枚のLPがボクの人格を100%変えた。ますます音楽にのめり込み、ヤクザな高校生活は過ぎ去り、名城大学という所に入学したんだけど、なにも4年間大学で勉強したかったわけでなく音楽を聞き、またそれをプレイする時間と空間が欲しかっただけだった。
ボクの希望はプロ・ミュージシャンに成る事しか頭に無かった。実際、ボクの当時の実力はたいしたもので、東京のマネージーから「東京に出て来なさい」という電話を数本いただいた。これは人生の別れ道だ。しかし情けない事にボクは肩まで伸びた長い髪を切り、大学卒業と供にある文房会社に就職しサラリーマンになった。度胸が無かったのだ。
入社したボクは3ヵ月の研修期間を終え、大阪に転勤になった。生まれてこのかた名古屋以外に住んだことの無いボクにとって、大阪はまるでコロンブスがアメリカ大陸を発見したのに等しかった。ドギツイ大阪弁にも慣れたボクがまず第一に感じたのは、街はいつも活気に溢れ、若者がエネルギッシュではつらつとしている事と、レコード店の多さだった。
自分の気持ちを裏切ってサラリーマンになった自分が悔しいのと、何もなかった名古屋への想いが渦巻き、混沌とした気持ちの中で会社をやめようと思いつつあった。そんな時、街を歩きながら一枚のチラシを手にした。その一枚のチラシこそがボクの人生を変えたのであった。
ボクが手にしたチラシにはこう書いてあった。「中古レコードセール」。それはインクがムラムラでいかにも素人の字と絵のガリ版刷り(死語か?) だった。チラシの地図をたよりに行ったビルは、なんとも怪しげでおまけにエレベーター無しの急勾配の階段の4階、それも4畳半ほどの部屋だった。普段は内気なボクだけど、こと音楽となると急にジャイアント馬場になる悪いクセがあって、もろともせず足を踏み入れた。そして一枚一枚レコードをめくり、見ていく時こんなに興奮した事はなかった。それは次に何があるのか分からないという興味と期待の連続で、一般レコード店、輸入盤店では味わえないウキウキしたフィーリングだった。
当時、東京に中古レコード専門店が数店あるのは知っていたが、大阪、名古屋には専門店と言えるものが一店も無く、あるとしても古本屋の片隅に申し訳なさそうに並んでいるとか、レコード店の一角にチョロリといった具合だった。レコードマニアの人々にとっては、時にして穴場であったかもしれないが、ボクにはレコードの死に場所の様な気がして悲しくて、つい敬速していた。
まったく違った中古レコードセールを見たとき、その醍醐味を知ってしまったボクは翌日もまた訪れた。そしてそこの主催者に「毎週土日にやっているんやけど、良かったらここでバイトせぇーへんか?」と大阪弁で誘いがあった。その一言がきっかけで毎週土日、そこでアルバイトをした。暗かった大阪での生活からやっと自分の求めるものが見つかったボクは、毎週土日の2日間が自分のすべてだった。そして会社に迷惑のかからない時期にボクは辞表を出した。「田中君!もう一度考え直したらどうかね」という支店長の言葉は耳を通り抜け、ボクの頭には名古屋で中古レコード専門店を開く事とロックがシャウトしていた。
人と人との巡り合わせというものは、運命的なもので「ここでバイトせぇーへんか?」と言った人こそ、その一年後大阪アメリカ村で開西初の中古レコード専門店 ″キングコング″ を開店した回陽氏であった。ボクにとって、先生でもあり又、大の親友でもある。
当時、名古屋で始めた中古レコードセールのチラシ
名古屋で中古レコード専門店を開店するべくホームグラウンドに帰ったボクは、レコード業界の勉強をする為に、K(株) にさっそく入社した。その時、「キッチリ3年で会社を辞め、店を出す」と固く心に決めていた。商売の勉強をしつつ、タウン誌に小さな広告を出した。「不要レコード買います。田中。」ひと月にわずかな問い合わせしかなかったし、レコードを売ってくれる人も少なかったけど次第に増えはじめ、退職とともに名古屋で初の中古レコードセールを栄町ビルの小さな一室で行なった。それは大成功で、土日の2日間のセールで36万円も売れた。大金が入った事よりもボクが名古屋でやろうとしている事は間違っていないんだという確信を持てた事がとてもうれしかった。
しかし、毎月一回のレコードセールも何度か繰り返すうちに、店が無いという最大のネックからレコードが思うように集まらなく、売上もジリジリ下がっていってしまった。
そんな事で、ボクは店探しにかかろうと思った。しかし、その前にどうしてもニューヨークヘ行きたかった。それは世界のトップをこの目で見、この体で感じ、そのエッセンスを注ぎ込み、世界ナンバーワンの中古レコード専門店を名古屋に作りたかったからだった。
ニューヨークヘ行こうと決めた次の日、ボクの決心を揺るがす1本のTELが鳴った。
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