? そこから郡上でHIPHOPを始めると。MAKERの誕生ですね。
- 郡上にHIP HOPシーンはあったんですか?
M はい。郡上に「WILD STYLE」というクルーがあって。DUCKくんというボスがいるんすけど。5つ歳上の。その人がやってたそのクルーでやりだしました。未だにあの人がボスっすね。
呂 「DUCK&MAKER」だったもんね。最初。
M そうです、そうです。そんでMAKERってのは地元のスラングで。馬鹿とか阿呆とかと一緒の使い方で地元で使われてました。
俺もそうやってからかわれたりしていたので、その名前を付けた感じですね。
それでWILD STYLE入って環境が変わって「ラップをしたいがために働く」みたいな。
呂 もういきなりズブハマりしたの?
M そうすね。最初は中3の頃に「8mile(EMINEM主演の自伝的映画)」のサントラを買ったんすよ。
んで、周りにB系がいなかったんすよ。
昔って、「みんながやってるから俺も」って感じだと思うんですけど、バンドとかも。
俺は全然違って、「周りがやってないからやりたい」ってのがあって。
呂 カラオケ上手かったし
M そう、唄も上手かったんだけど、ラップもできて。キングギドラとかカラオケで。元々ラップやってたのをWILD STYLE以降、本格的に。
- WILD STYLEは何人くらいいたんですか?相模原のSAG DOWN POSSE(通称SDP。 NORIKIYO/BRON-K/DJ ISSO/らが所属する大所帯クルー。ダンス、ラップ、DJ、グラフィティー、すべてのレベルが高いお手本的なHIP HOP集団)みたいな、街のHIP HOP好き勢ぞろいみたいな?
M でもそんなにいなくて、10人くらいで、DJ、ラッパー、あとシンガーの女の子もいましたね。
- それでラップ始めてどうでした?(カラオケみたいに)最初から飛び抜けてた?
M ああ、ありました。ライブとか観てても、、、
- なんでこんな簡単なことができないんだろう?みたいな。わざとダサくしてんのかな、とか?
M んー、、、
呂 1番やっちゃいけないことをフルコースでやっちゃうヤツとかゴロゴロいるよね。
- カルマも始めた時に思いました?
呂 思ったすね。ていうかできないヤツばっかりだったから「俺はもっとうまくできる」と思って始めた感じもある。いまだにそうだし。
- それはどこが基準なんだろう?洋楽と比べてとか、日本語ラップの表現としてとか、そもそも曲が、、、
呂 いや、人間として。人としてダサくない?って。「それ曲間でそんなこと言うのダサいっしょ」てところから。そもそもラップって結構自分のことを歌うじゃないですか?だからそいつ自身がどうかっていう。
M んで、こう客観的に観てる状況と自分の理想ってのがあるじゃないですか?そのギャップで逆に自分に変な自信がついてた時期でしたね。昔は、やっぱり。
- その活動初期に好きなアーティトは誰でした?
M そん時はニトロ(NITRO MICROPHONE UNDERGROUND)が大好きで、ライヴ映像とかよく見てましたね。DABOさん好きでしたね。2ndソロ「Hitman」が初めて買った日本語ラップのアルバムで。そのあと1st「Platinum Tongue」のリリース・パーティーの映像ですかね?それを観ながらカラオケで真似してました。
- 結構真似するの難しそうだけど再現できました?高校生で。
M そうすね。再現できてたと思いますよ。
- すごいですね。ラップの運動神経みたいのが元々あったんだ。
M だから”レクサスグッチ”って曲あるじゃないですか?
呂 むっちゃ早口だよね。
M アレをやって、俺スナックで大人気ですもん。(一同笑) いまだに地元の先輩とかに「アレ歌ってよ」とか言われます(笑)
呂 あーでもなんかできそう。声裏返したりとか、なんか浮かぶわ。
- じゃあWILD STYLE時代は充実してました?
M 当時は充実してましたよ。凄い面白かったですよ。
呂 AK-69のマイクコンテストで優勝したのはいくつくらいなの?だいぶ若いよね。
M 21歳とかですね。始めて3、4年くらいですかね。DUCK&MAKERで優勝しました。
呂 WILD STYLEは他にもラッパーいたんでしょ?
M いました。はい。
呂 そん中で、DUCKがボスなワケじゃん?それでルーキーのMAKERが、ボスから「DUCK&MAKERで一緒にやろうぜ」ってなったのは、やっぱり最初から上手かったから見初められたんじゃないかな。
M んー、かもしんないすねえ。結構、最初の方からサイドMCに抜擢されて、でそのまんま「DUCK&MAKER」になって。
- そこからMAKERソロとして、なんか「変わろう」となったキッカケみたいなものはありました?作品とか誰かに影響や衝撃を受けたとか。
M 一番のキッカケはその年(優勝した2009年)にあった「MURDER THEY FALL(CLUB DIAMOND HALLで行われていたHIP HOP x HARD COREの伝説的なイベント)」ですね。
- え、意外ですね。「出演できて嬉しかった」じゃなくて?
M「MURDER THEY FALL」に DUCK&MAKERで出たんですけど、そん時にメッチャ悔しかったんですよ。
- それは目立てなくて?
M 「負けた」感が半端なかったんすよ。色んな人たちがいたけど、TYRANTも出てて、やっぱ、ガッ!て盛り上げてて。俺らはそこまでだったんで。それでとりあえず、あの現場に行って、ボコボコにされた感がありましたね。「コレか!」みたいな。それまで俺がいた現場にはなかった空気もあったし。
- TYRANTは独特というか、なんか特殊なカッコよさがありましたよね。
呂 それもあるけど、当時TYRANTってすげえ練習してたと思うんすよ。その「MURDER THEY FALL」の次の年かな?TYRANTとか、今「SLUM RC」に参加してるメンバーとかとスタジオ入ってた時期があるんですけど、凄かったもん。「あ、ここまでやってるんだ」って結構、衝撃だった。
- JCPも毎週ミーティングしてなかった?
呂 してたけど、あれは会って喋ってるだけなんで。レコーディングもしてましたけど、練習ってのとは全然違うし。
M へ〜〜。意外!そうかー。なんかその時も空気でわかったんですよね。負けた感が。「TYRANTがカッコよかった」とか「漢さんライブ良かったよ」とか楽屋で話が飛び交うんだけど、俺らの名前は全然聞かなかったんで。
んで、「このままじゃいけないな」と思って。その反動か分かんないんですけど、「一人で勝負したい」ってなっちゃって。まだ若かったんで。それで、ソロでやり始める動きをしました。当時はDUCK&MAKERの活動も並行しながら。
- ソロになってから拠点を名古屋とかに移そうとはならなかったんですか?
M いや、特に考えてないです。
呂 郡上から出たことってあるの?
M 住むとこですか?いや、もうずっと郡上。
呂 こだわりがあるのそれは?
- 単純に岐阜市とか名古屋市とかに出た方が人口やチャンスも多いと思うけど、、、
M でもなんか、岐阜に行ったら、名古屋に行ったら、「岐阜のラッパー」「名古屋のラッパー」て言われるのがちょっとイヤで。でまあ、郡上にいた方が、「郡上のラッパー」って言われるかなって。
「郡上のラッパー」ってやっぱ言われたかったんで。
呂 郷土愛がメチャ強いね。
M だから、今回のアルバムでそこの決着をつけたかったんですよ。郡上八幡のジャケで郡上八幡のことを歌って、そういうことで、証拠ができると。郡上に居たってアリバイができるから、、、だからああいうアルバムを作れば俺はどこでも行けるかなって。
呂 最後の曲とかそういう感じだよね。最後の曲一番好きだわ。
- 最後の曲にモロ「アルバムを作ればアリバイは成立する」ってラインもあるし
M なんで、ああいう迷いもありつつのアルバムでしたね。